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宗教が嫌い

宗教というのは概して、「人生とは何か」とか「なぜ世界が存在するのか」とかいう哲学的な問いに対して答えをくれる。それは元々、まだ人間が自然に対抗したり共存したりするほどの知恵を蓄えていなかった頃に、自然の不条理に理由をつけるために神という超自然的なものを創り上げ、それが宗教の元になっているからである。超自然的ということはつまり、自然をも掌握する存在であり、神を起点に考えればこの世の全ての事象について説明がつくのである。科学(=人間の知恵)は間違いなく進歩しているが、当然自然の摂理全てを説明づけるほどの境地には達していない。だからこそ哲学者は未知の領域について科学者と同様に興味を示し、思考する。他方宗教は神という存在の元、強制的にそれを説明づけようとする。

人間に知恵がつくとやがて身分の差が生まれ、貧富の差が生まれる。そして身分の高い人間が、それまで伝説のような形で伝わっていた自然に関する話を整理し、論理的かどうかはさておき宗教という形で体系化する。しかし宗教は往々にして政治に利用され、社会的な思想を含むようになる。キリスト教の国教化が良い例だ。その宗教を批判する人間はすなわちその宗教を重んじる政治を批判したことになり、弾圧され、下手すると同じ宗教でも違うストーリーを描く派閥がいればそれも弾圧される。これもキリスト教が良い例だ。当然宗教の理論は理論ではなく、科学と衝突するのも無理はないが、中世から近代にかけて、その衝突に勝つのは大抵宗教であった。ガリレオが涙を飲んだのもそれが理由だ。

先に述べたように神というのは超自然的なもので、禁止カードである。科学が発達していなかった昔ならまだしも、現代の、素人目線で言えばいくらでも学ぶことがある世界で宗教を信じるのは僕からすれば「諦め」である。哲学的な問いに、自分の知識と経験と思考で答えようとする努力から逃げている。もう人生とか世界とか、スケールの大きい問いに挑む時間がない人間が宗教に頼るのは理解できる。そんなことより目の前の世界を楽しんだ方が合理的だからだ。しかしまだ沢山の時間を持つ人が、そういう問いに挑む過程で得られる(であろう)新たな知見や自分なりの考えを投げ打って、腐敗した歴史の垢に塗れた宗教にしがみつくというのはいささか短絡的じゃないだろうか。僕からすれば宗教にはなんの思考もなく、ただ一つの、元々決まっていたストーリーを盲目的に信じるだけの人々である。

死後の世界とか、この先自分たちが生きている間には解き明かされなさそうな問いに対して、何か自分で仮説を持ったり、「いやこの問いには答えられないだろ」と挑戦を保留にするのは問題ないし、僕を含むほとんどの人が後者だろう。しかしそれは何かを信じることとは違う。何も信じないだけだ。 ある問いに対して答えが空っぽであれば、ふとした時に考えたり思い起こしたりできる。しかし答えが埋まっていてしまってはそれを疑うことは難しいし、ほとんどの場合しないのである。

キリスト教徒が沢山いるであろう国に留学する手前、あまりこの思想を前面に押し出し続けるわけにもいかないが、何はともあれ僕は宗教が嫌いである。