Kota's Blog

アンチ宗教 pt.2

2025-12-29 Memoir

4年前の8月,まだ高校生だった頃にアンチ宗教という文章を書いた.当時,高校の歴史の授業であらゆる紛争が宗教にまつわるものであるというのを知り,「そんな戦争ばかり起こすふざけた組織があって良いのか」と思い立ってああいう文章が出来上がったのだが,4年が経ってかなり考えが変わった.以下4年前の記事をpt.1とする.

前提

そもそもpt.1は主にキリスト教を想定して書いたものである.古代からその起源,科学との共存の歴史を最も安易に辿れる宗教がキリスト教だったというだけで,全ての宗教が「神という存在の元,強制的にそれ(自然現象)を説明づけようとする」わけではない.例えば仏教では超自然的な存在を置かない.ブッダは世界の創造主ではない.代わりに縁起や無常,無我といった概念によって存在意義や自然の摂理への答えを与える(道を示すと言ったほうが正しいかもしれない).仏教における縁起というのは自然の摂理の説明のように思えるが,これは,僕の解釈では観察の結果であり,定義をしているわけではない.

そういうわけで,キリスト教と西洋の歴史だけを見て「アンチ宗教」という文章を書くのは浅学な高校生ならではで,あまり生産的な批判ではないなと4年を経て思った.

信教の理由

pt.1では「自然の不条理に理由をつけるために神という超自然的なものを創り上げ,それが宗教の元になっている」と述べていたが,これは現代の多くの信教の理由には当てはまらないように思う.

古代では確かに,コスモスを定義し,秩序ある宇宙観を作り上げていた.そこに科学的根拠は乏しく,科学の進歩によってコスモスは崩壊した.

新しい学問が、全てのものに懐疑をかけるようになり、その結果、火という元素 は、すっかり消えてしまった。太陽が失われて、地球も行方不明となり、賢い人 でも、誰一人、何処にそれを探したらよいのか、分からない。人々は、はばかる ことなく、この世はお終いだと言う。惑星でも、恒星でも、今までは知られな かったものが、次々と発見されるからである。 人々は、この世は再びばらばらの 原子の粒子に帰ったと感じているのである。全てが粉々の破片となって、あらゆ る統ーが失われた。全ての公正な相互扶助も、全ての相関関係も喪失した。王様 も、家臣も、父親も、息子も、忘れられてしまった。あらゆる人間が、自分だけ が、フェニックスのような存在であると考えている。すなわち、自分を除いては、 誰も同じ種の者はあり得ないと、誇っているのである

一周忌の歌(この世の解剖)

しかし,コスモスが崩壊したからと言って宗教が消滅したわけではない.むしろ,科学の進歩によって文明が進歩し,職業が増え,社会における自分の立ち位置が不確実になればなるほど,宗教の需要が増したと言える.哲学と密接に関わっていた古代においては,自然の摂理を含めた根源的な疑問に答えるための仮説の役割を担っていた宗教が,科学の進歩とともにその役割を終え,「救いとしての宗教」として発展していったと考えられるのである.

救いとしての宗教は,自分自身の存在意義を与えてくれる.科学は,命は繁殖の結果であり繁殖の能力を持ち,代謝を行う存在であるという定義を与える.しかし,「なぜ命があるのか」「命に意味はあるのか」と言った問いには答えてくれない.古代でも現代でもおそらく,悩みに悩んだ人間が行き着く問いは「なんで自分は生きているんだ」という問いだと思うが,これに答えを与えてくれる,もしくは道を示してくれるのは宗教だけである.

もっというと,科学と,救いとしての宗教は共存しうる.科学は自然現象の具体的な解釈手段として,宗教はその上のレイヤーで,なぜ生きるのかといったような問いへの解答手段として存在できると思うし,そうやって続いている宗教もある.

つまり,pt.1で述べていた理由づけのための宗教という側面は現代ではあまり無く,救いとして,もしくは自己規律のために宗教が存在しているのではないかというのが4年経った僕の見解である.

筋トレ

僕は3年ほど前から筋トレを始めた.筋トレに関する科学というのはかなり進んでいて,主に生理学,スポーツ科学の二分野で定量的,定性的な研究が進んでいる.トレーニングメニューの組み方はかなり論文に基づいて組むというのができるようになっているが,メニューを組むというのとトレーニングをするというのは全く別の話である.トレーニング中に,メニュー上はあと何レップやるべきだと分かっていても,もうバーベルが上がらない時は当然ある.そういう時に,「もっとやった方が良いと証明されている」から頑張るのと,「自分は大きくなれると信じている」から頑張るのでは,圧倒的に後者の方が力が出るということに気がついた.そしてその時に,何かを信じるということが,pt.1で述べているような現実からの逃避だけには留まらない力を持つことを知った.

これは宗教というよりも信じるという行為に対する思想の変化だが,pt.1を書いたときはそれさえも真っ向から否定していたので,これも4年の月日を経て変化した思想の一つである.

まとめ

このpt.2で伝えたいことというのは特になくて,僕は4年が経って色々思想が変わりましたよというただそれだけなのだが,本と経験が積まれていくことで,短絡的だった思想がどんどん深くなっていくというのは,体験するととても楽しいものだと思う.来年もよろしくお願いします.良いお年を.